いままで『究極の2択』が本当に究極だった試しがない
「もしも10億円手に入るとすれば視力と聴力どっちを失う?」
先日、職場の先輩からされた質問である。
こんなアホみたいな質問するのは今どき小学生か2ちゃんねらーくらいだろうと思っていたけれど、まさかこんな身近にいるとは思ってもみなかった。
先輩曰く、これは『究極の2択』なんだそう。
例えば視力を失えば前が見えなくなって不便だし、耳が聞こえなくなれば大好きな音楽が聴けなくなるといったふうにそれぞれデメリットを熱く語っていたが、これまた理由がやたらとマヌケである。大好きな音楽て。
もしかすると今日に限って朝まで飲んでいたんじゃないかと疑ったが、どうやらシラフであることは間違いないようだ。
総合的に比較するとまだ聴力を失うだけであれば何かとリカバーできそうな気はすると一瞬マジメに想像しつつ、最終的に私が出した答えは「10億を諦めます」だった。
えー、つまんないのーとかぬかしやがっているこのひとは齢35にもなって知能指数ゼロの質問をしていて自分自身に絶望とかしないんだろうか。
もちろん、童心に帰るということは大人社会で荒みきった精神をリセットするという意味ではとても重要なことだと思うし、少年のような気持ちを忘れない男性というのはどこかスキがあって女心をくすぐるのだと何かの特集で読んだことがある。これは女性誌だったはずだから間違いないと思う。
しかしどうだろうか、先輩の知能はもう少年とかをすっ飛ばして、もはや幼児退行し始めている。だんだん心配になってきた。きっと働きすぎだろう。この土日は20歳以上にのみ許された娯楽を思う存分満喫してきてもらって是非とも大人としての自分を取り戻してきてほしいと思う。
『究極の選択』という例えが最高にアホっぽい
そもそも先輩の提示してきた条件は究極でもなんでもない。どちらかを選ばなければならないという強制力が働くことによって無理やり選ばせるだけの2択はナンセンスである。
できることなら回避したいけど、どちらかを選ばなければならないというシチュエーションは『選択している』のではなく『選択させられている』だけで、それに対して「さぁ!どうだ!悩むだろ~!」とか、さも自分の提示した条件に対してこちらが頭を悩ませていると思い込んでいる満足気なハッピーちゃんの顔ほど殴りたいものはない。
実は先輩との一連のやりとりの数日前にも脳みそハッピーちゃんな後輩くんから連絡がきて、似たようなやりとりをした。
そのときは5人くらいのグループで会話をしていたのだが、そこで後輩くんがおもむろに『ウ〇コ味のカレーとカレー味のウ〇コ』食べるならどっちですか?という質問をブッ込んできた。
もしかしたらこのまま古典の授業が始まるんじゃなかろうかと一同身構えたが、後輩くんのなかでは2017年現在、まだまだ現役のネタ振りだったらしい。
まず普通に考えて人間としての倫理的に、そして越えちゃいけない一線というところを考えて、やっぱりウ〇コは食っちゃいかんだろうという結論に至るまではそう時間はかからない。それが例え、イチゴ味だろうとメロン味だろうと食っちゃいけないものは食っちゃいけないのである。
ちなみにこの話は、後輩君にウ〇コ味のウ〇コを食ってもらうということで無事、決着した。
『究極』という表現の難しさ
とかく、私たちは『究極』という枕詞を使うと、ついついオーバーな表現・想像をしてしまう癖がある。
例えば、【店長イチオシ!厳選した究極のサーロインステーキ!】みたいなものよりも、実は『限定』とも『究極』とも謳っていない、大通りからちょっと裏路地に入った小さな立ち飲みバーがランチで提供するサーロインの牛カツのほうがよっぽど美味かったりする。
これは究極という言葉に対して自分のなかで勝手にハードルを上げた結果、そこをくぐってこられたときのガッカリ感で勝手にマイナス評価をしてしまうという悪い癖なんだと思う。店長イチオシの肉は確かに美味かった。しかしやはり究極を自負するのであればそこはハードルを越えてきて欲しいという期待をするなというほうが無理である。
この究極という言葉のせいで内容が現実味を失いすぎて、真面目に答えるのがバカバカしいお題も量産されてしまうのではないかと思う。
みなさんも『究極』という言葉に踊らされないよう、くれぐれも気を付けていただきたいものである。
ところで私はこの記事を書く前からずっと悩んでいることがある。それは食後のデザートに桃の缶詰を食べるか、ハーゲンダッツを食べるかという深刻な悩みだ。
そう、究極の2択というのは案外、身近なところに潜んでいるものなのだ。